2019年05月

窓口で

インターネットを利用した通信販売が全盛の時代を迎えました。フリーマーケットまでスマホでできてしまいます。買う人も売る人もそして仲介する人も、無言で画面に向かうだけです。


買う人は、いちいち外出しなくてもいい。行ってはみたけれど思うような品がなかったり売り切れたりしていた、などの無駄足を踏むこともありません。売る人は店を構える手間がかからない。



一見、無駄がないように見えますが、果たしてどうなのでしょう。



商品の配送で、運送業界が大変なことになっています。エネルギーも大量に消費されます。電気が十分に供給されなければすべての前提が成り立たない。

4回前のブログ「ナカミとイレモノ」で取り上げた音楽のダウンロードやストリーミングに似ているところもあります。

道新文化事業社も、利用者のみなさんがお好みの公演に手軽に出かけられるように、チケットのオンライン販売システムを導入しています。



<ネット申し込み―クレジット決済-最寄りのコンビニでチケット受け取り>



という仕組みを利用されるお客様がどんどん増えています。紙のチケットのいらない電子チケット(バーコードをスマホに表示したり自分で紙に印刷したり)も、年配のお客様にも広がっています。

でも、プレイガイド窓口を開いての対面販売も、決しておろそかにはできません。来店されるのは「チケットを買う」という目的のためばかりではありません。公演の予定やチケット発売スケジュールの確認に見える方も多いのです。疑問解消、情報収集に窓口は安心感をもっていただけるようです。

札幌市内では、プレイガイドが減っています。ことし4月には大丸藤井のプレイガイドが閉鎖されました。
道新プレイガイドと距離が近いため、流れて来られるお客様が増えてきました。
スタッフによると、こちらの「常連さん」と大丸のそれでは雰囲気に違いがあるそうです。大丸さんの方が会話が長くなる傾向もあるとか。きっと大丸さんは「居心地」がよかったのでしょう。

対面販売



込み合っているときは、スムーズに仕事を進めることがどうしても優先してしまいますが、お客様のいろんな声を直接聞くことは、商売にとってとても大事です。
スタッフたちはわたしが指示するまでもなく、丁寧な対応をこころがけているはずです。

これは電話も同じ。スタッフの受け答えを脇で聞いていて、受話器の向こうでお客様が満足してくださっているのが伝わってきたときはうれしく、スタッフを誇りに思うのです。



札幌のまちなかに出てきたついでに、道新プレイガイドや札幌市民交流プラザのチケットセンターにふらりと立ち寄っていただければうれしい。お薦めの公演を用意してお待ちしています。



来年の東京オリンピックの観戦チケット予約が締め切られました。抽選に申し込むだけで長時間待たされるという現象が起きています。ネット上のことなので、「騒動」は見えませんが、締め切り時刻になお「並んでいる」人が28万人とは、恐るべき数字です。同じチケットを扱う者として、労いたい思いですが、本番は来年春以降とされる窓口での販売ではないかと予想しています。


写真はある日の道新プレイガイド窓口

市民感覚

映画「12人の怒れる男たち」(シドニー・ルメット監督、1957年)をご存知の人は多いと思います。
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員らが論議し、真実に迫る過程が描かれます。ロケーションは、ほとんど評議の室内のみという手法が、逆に作品の緊迫感を強調し、高く評価されました。

もともとはテレビドラマで、原作者はアメリカの脚本家レジナルド・ローズ。彼が実際に陪審員を務めた経験から創作したとされます。

一般市民が抽選で司法に参加するアメリカの陪審制は、アメリカ的民主主義のひとつの現れ。対象となる事件について陪審員は、有罪か無罪かを評決します。有罪となれば、プロの裁判官が量刑を決めます。


さきごろ制度導入から10年を迎えた日本の裁判員制度は、有罪か無罪かだけでなく、量刑までも合議で決めます。
裁判員の方が陪審員より、さらに負担が大きいと言えます。


2008年と記憶します。制度導入に向けて、最高裁ばかりでなく各地の高裁、地裁も最後のPRに余念がありませんでした。わたしは地方都市の北海道新聞報道部におり、立場上、地裁・家裁の運営に意見を述べる委員会のメンバーでしたが、その場でも裁判員制度についての意見を求められました。


わたしの意見は、制度に懐疑的なものでした。
「司法に対する国民の信頼を言うのなら、裁判よりも捜査の在り方の方が問題が多いのではないか」
「裁判は真実を発見する過程であり、裁判員の負担を軽くするために審理を短縮するのは本末転倒ではないか」
「市民感覚を裁判に生かしたいのなら、刑事裁判よりも行政訴訟の方が対象にふさわしいのではないか」
などと申し上げたことを覚えています。

裁判官を交えた少人数の意見交換の場も設けられ、そこでは「裁判官が裁判に費やす時間を削って制度のPRをさせられるのは大変ですね。不満はないですか」などとぶしつけに聞いたりもしました。


わたしの考えはいずれも少数意見で、制度がすでに出来上がっている段階ではまったく無力でした。挑発したつもりの裁判官は「裁判官も司法機構の一員ですから」と、にっこりと返したのみでした。


わたしはどうしても、裁判を受ける被告人の立場で考えてしまいます。
自分が被告だったら、裁判員裁判を望むだろうか。
裁判員は真実の発見に全力を尽くしてくれるか。量刑は、ほかの同種の事件の被告と比べて公平なものか。
今に至ってもはっきりした答えは見出せません。


同時期、被害者関係者の裁判参加が課題になっていました。
これにはわたしは、はっきり疑問を持っていました。
被害者が家族にどれほど愛されていたか、審理の中で家族がどれほど感動的な訴えをできたかは、「真実の発見」にとって重要ではない。場合によっては公平性に欠ける結論を導きかねないと感じていたからです。
自分が被害者となった場合でもそんなことが言えるのか、という反論は当然あるでしょう。それまでの制度では、被害者の立場が不当に低かったことは否定できません。それにしても…。

その後、自分が裁判員に選ばれたら、ぜひ審理に全力投球したいものだ、と待ち構えているのですが、当選通知は来ないままです。また、裁判員経験者の友達もできないままです。

先日、注目すべき判決がありました。
障害を理由に強制的に不妊手術を受けさせられた女性が訴えた行政訴訟です。裁判所=裁判官は、根拠となった旧優生保護法は憲法違反だと認めましたが、それを正さなかった政府の不作為は認めず、損害賠償請求権も除斥期間を理由に認めませんでした。

旧優生保護法が存在したのは1996年まで。決して遠い過去のことではありません。手術を受けた人の多くが、この時点で手術後20年を経過していたといいますから、とんでもない人権侵害は1970代半ばごろまで続いていた計算です。行政の怠慢は明らかではないでしょうか。それこそ市民感覚からずれている。

同様の訴訟はこれからも各地の地裁で続きます。裁判官の市民感覚をよく見ていきたいものです。

いいスポーツ?

このごろ話題になっているものに「eスポーツ」があります。

要は対戦型のコンピューターゲームの腕を競うことを、スポーツとして楽しもうというわけです。

 

伝統的なスポーツ愛好家には「そんなのスポーツじゃない」と、顔をしかめる向きがまだまだ多い。「e」スポーツは「悪い」スポーツだと言わんばかりなのですね。


 

しかし、米国や中国、韓国では、多額の賞金をかけた大会が開かれて大勢の観衆を集め、選手(プロゲーマー)は社会的に尊敬の対象になっているのだそうです。

市場規模は全世界で約1000億円。今後は年率13%で伸びていくという予測(NTTデータ)もあるのだとか。



いずれオリンピックの正式競技になるだろうとも言われています。


 

わたしは対戦型のコンピューターゲームには興味がなく未経験ですし、ゲーマーといわれる人たちがゲームで勝利するためにどんな訓練を積んでいるのかも知りません。

かといって伝統的なスポーツに思い入れがあるわけでもありません。体を動かすのは苦手で、伝統的スポーツにつきものの「汗」とか「根性」とかに、無条件に感動してしまうようなスポーツ経験はほぼゼロです。

ですが、職業柄、大勢の人が動くイベントには興味がわきます。

 


つまり、eスポーツにあまり先入感は持っていないつもりです。


 

ただし、ごく一般の子供たちにコンピューターゲームを奨励することには中立的ではいられません。

ゲーマーが英雄視されることと、ゲーマーを目指そうとする子供たちが続々現れることとは切り離せるのか。すっぱりと「別物だ」と割り切れればいいのですが。



 

子「将来はゲーマーになる」

親「偉い! うんとゲームをして頑張るんだよ」



 

なんだかなあ。



 

世界保健機関(WHO)が総会で、ゲームのやりすぎで日常生活が困難になる「ゲーム障害」を新たな依存症として認定したそうです(2019年5月26日北海道新聞)。

 

 

eスポーツ.jpg

 

 

「ゲーム脳」という言葉がありました。未発達な脳にとって、コンピューターゲームの刺激はかなり悪い影響を与えるというのは、確かなようです。

伝統的なスポーツ、野球やサッカーに打ち込んだ少年が、肩や足腰に故障を抱えることはままあります。それらと、ゲームが脳に与えるダメージを同等に考えることはできないでしょう。

 

一般の応援にしてもそうです。サッカーの敗戦がサポーターの暴動を引き起こすことがあります。それがサッカーではなくてコンピューターゲームだったら。なぜだか、人類の終末を連想してしまって、そら恐ろしい(SF映画の見過ぎ?)。

 

これは勘繰りになりますが、eスポーツ奨励の背景には、関連業界の「カネ儲け主義=巨大な利権」が横たわっている感じがする(自分が『大勢の人が動くイベントには興味がわきます』、などと言ったばかりですが)。機器やソフトの特定のメーカーが得る利益は、伝統的スポーツの用具メーカーが受ける利益とは比較になりますまい。

オリンピックを盛り上げたい人たちも、eスポーツを支持する若者たちを振り向かせるという「利益」を強く意識しているでしょう。

 

そんなこんなを考えると、eスポーツが「大繁栄」する未来は、あまり想像したくない、というのが現時点でのわたしなりの結論になります。

 

 

以下は、まったく別の付け足し話。あまのじゃくなわたしは、伝統的なスポーツがともすれば軍隊用語で語られることに違和感を抱いてきました。応援している人たちに向かって監督や選手が「ともに戦いましょう」などと呼びかけるのを聞くと、そこから離れたくなります(ちょっとオーバーに書いてます)。

ゲームはゲームとして楽しむ(打ち込む)のがいい。ゲームに参加するのは「戦い」ではなく、あくまでも「プレー」の精神でやってほしい。命をやりとりするものではないのですから。

 

 


終了御礼

札幌で初めての催し「さっぽろ落語まつり」が、2019年5月24日から26日まで、市内三つの会場(札幌文化芸術劇場hitaru、道新ホール、共済ホール)で開かれました。東西から、今をときめく売れっ子の噺家さん総勢28人が集まり、合わせて13公演。各公演に5~6人ずつ出演して来場者を大いに笑わせました。

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お越しいただいた皆様、ありがとうございました。目当ての公演が売り切れて希望がかなわなかったファンの皆様、申し訳ありませんでした。

hitaru会場内には、高座を再現した模型が組まれ、座布団にすわって記念撮影される来場客が列をなしました。記念グッズの販売コーナーも人気で、主催者が用意したオリジナルてぬぐいは1000本が売り切れ。お祭りムードを楽しんでいただけたようです。

落語まつり


強い暖気が入り込み、東京や大阪よりも暑くなった札幌の3日間。三会場同時進行のまつりですから、全公演を自分の目で確かめたわけではありませんが、どの公演も大好評だったようです。



噺家さんたちは全力投球で持てる芸を披露していただきました。「まくら」では、落語鑑賞にあまり慣れていないお客を想定したような、基本的な話題もちりばめてくださった師匠が多く、通(つう)のお客様を含めて、楽しめて今後の鑑賞の参考にもなったのではないでしょうか。



東京・大阪では、チケットの入手が難しいといわれる人気者が顔をそろえる豪華なまつりにできたのは、プロデュースを買って出てくださった六代目三遊亭円楽師匠のお陰です。
師匠は福岡で12回を数える「博多・天神落語まつり」もプロデュースされています。「福岡に続いて札幌でもまつりを定着させる。オセロゲームのように」。その熱意には執念を感じさせるほどのものでした。



まつりは、テレビ北海道の開局30周年記念事業にも位置付けられ、メーン会場となった札幌文化芸術劇場hitaruとともに共催させていただいたものです。
私どもは道新寄席、テレビ北海道さんはTvh落語で、落語会の経験を積んできたつもりではいますが、さすがにこれだけの規模となると、準備段階から緊張の連続でした。
この経験を糧に、来年の第2回も計画中です。ぜひ、ご期待ください。また、道新ホールなどでほぼ毎月開いている道新寄席もどうぞごひいきに。

写真はhitaruの会場の様子とにぎわうhitaruロビー

言論の自由

「言論の自由」。


たいそうなタイトルを掲げましたが、これはわたしたちにとって譲ることのできない権利です。

文化イベントの主催を仕事の柱とするわたくしどもの会社にとっても死活的に重要です。
「言論の自由」、それと分かちがたい「表現の自由」「出版の自由」は、闊達な文化活動に欠かせない条件です。これがなければ、市民に広く支持される文化イベントも生まれません。

その「言論の自由」が、都合のいいように使われている。

2019年5月の北方領土ビザなし交流に参加し、国後島での訪問団の懇親会で酔っぱらった末に、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」「戦争しないとどうしようもなくないですか」と、団長にからんだ国会議員のことです。

この発言自体とんでもないのですが、そのとんでもなさは、わたしが詳しく書くまでもありますまい。

注目しているのは、「次の段階」です。まあ、予想通りといえば予想通りなのですが、この人物が「言論の自由」をたてに、反論を企て、議員に居座ろうとしていることです。

ここで「言論の自由」を持ち出すのは筋違いであることは、しっかり指摘しておかなければならない。

いまさら偉そうに言うことではありませんが、「言論の自由」の本質は、「統治される側」にとっての「市民的自由」です。
「統治する側」が、その権力や権限を使って、「統治される側」の言論の自由を奪ったり抑圧したりしたら、「統治する側」には、やりたい放題になってしまう。それを抑止するために保証した「自由」なのです。

似たものに「国民の知る権利」があります。隠し事が漏れ出して犯人捜しをする「統治する側」がたまに「政府にも知る権利がある」などと口走ることがあります。これは違う。「知る権利」はあくまでも「国民の」権利です。政府にあるのは「知る権利」ではなく「知らせる義務」なのです。

これは付け足しですが、
「言論の自由」を横並びの市民に向けるときは、「自由」だけを主張することは許されず、「責任」も伴う。これもまた、当然のことです。

この議員に対して野党が5月17日、辞職勧告決議案を提出しましたが、与党側はもっとユルい譴責決議案を出し、ひょっとするといずれの決議案も廃案になるかもしれない状況です。
与党が辞職勧告に後ろ向きなのは、失言・暴言で辞職勧告の前例がない、こんな前例をつくったら後から色々出てきて際限がなくなりかねない(さすがに露骨にこうは言っていませんが)ということなのですね。


さらに―。
やはり出てきました。「国会議員の言論の自由は保障されるべきだ」(自民党幹部、北海道新聞5月17日朝刊)。


そういえば安倍晋三首相も言っていました。ことし、「悪夢のような民主党政権」と自民党大会で演説して批判されたとき。まだありました。2014年の衆院選の際に、民放テレビが放送した「まちの声」が偏っているとクレームをつけて批判されたとき。何と国会で(!)言論の自由と胸を張ったのです。
「自由」「民主」が聞いてあきれる。この総裁にしてこの幹部あり、ということでしょうか。

問題の議員は自民党ではありませんが、東京大学を出て国家公務員上級試験にも合格したエリートだそうです。しかし、民主主義や市民の自由については、何も学んでこなかったのですね。そんな人間を選挙で担いだ政党も政党だ。

国会議員は、「統治される者」の代表として統治機構をチェックするのが仕事です。そのために権限も立場も保証されている。他に権限のない市民の「宝物」である「言論の自由」を持ち出すのはまったくおかしいのです。
この人物が国会議員としてすべきことは、領土問題の歴史・現状を学び、国際条約を学び、政府の対応の是非を研究し、その成果を国会の場で開陳し、「統治する者」である政府を動かしたり、国民の共感を得たりすることです。

立場をわきまえず、自分勝手な思い込みを、しかも酔っぱらってわめきたてるのは「言論の自由」で保護されるべきことではない。

領土問題に戦争を持ち出すことがあまりに愚かなので陰に隠れてしまいそうですが、大切な「言論の自由」を拡大利用させないことにも、しっかりと目を光らせたい。
こういう人に限って、自分の気に入らない表現活動を抑え込もうとする危険が大きいものです。

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