2019年04月
ことし1月の当ブログ「原作は?」で、ツェムリンスキーのオペラ「フィレンツェの悲劇」を紹介したのを覚えていてくださる人はひとりもいないとは思いますが、それの舞台上演を東京・初台の新国立劇場で見てきました(4月14日)。
声楽陣(といっても登場人物は3人だけ)がちょっと弱く、複雑な響きのオーケストラ(東京フィル)に負けがちだったのは残念でしたが、ツェムリンスキーと原作のオスカー・ワイルドの退廃の世界は十分に楽しむことができました。
指揮のマエストロ沼尻竜典は、ライトモティーフの際立たせ方が実に入念で、ツェムリンスキーがスコアに書き込んだ物語の展開を、目をつぶっていても分かるように鮮やかに描き出していたと思います。
プログラムによるとこのオペラの日本初演は、新国立劇場の芸術監督であるマエストロ大野和士、1992年だそうです。沼尻氏も2002年名古屋フィルで、2004年に新日本フィルで指揮しているといいますから、今回の上演も画期的というほどではなかったのですね。
これも以前のブログに書きましたが、大野氏は東京フィル常任指揮者時代に「オペラ・コンチェルタンテ」というシリーズを企画して、ツェムリンスキーやシュレーカーなどいわゆる「退廃音楽」も積極的に取り上げました。
以前のブログ【続・続ジャケ買い(またはジャケ美術館・その2)】
わたしは当時たまたま東京で勤務していたので、大野氏指揮の「はるかなる響き」(シュレーカー)や沼尻氏指揮の「こびと」(ツェムリンスキー)を見ていて、「東京ちゅうところは、いいところだなあ」と感涙にむせんだ(?)のを覚えています。
大野氏が新国立劇場の芸術監督になって、沼尻氏らとあらためてこうした音楽の紹介に努めてくれることは、とても素晴らしい。北海道在住者としてはお金が大変ですが。
今回の上演、「ダブル・ビル」といって、2本の短いオペラを組み合わせて上演するものでした。2本立てですね。で、組み合わされたのがプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」でした。
こちらも、「フィレンツェ…」よりはポピュラーとはいえ、上演機会は少ない作品です。「フィレンツェ…」とは対照的なドタバタ喜劇。共通点といえば、物語の舞台がフィレンツェであること、登場人物にシモーネという男がいるぐらいですが、まあ、プッチーニが例によってわかりやすい音楽を書いており、登場人物が多い割には物語の展開は単純なので、ほとんどなじんでいないわたしにも楽しめる上演でした。
ここで強引にこの夏の札幌文化芸術劇場hitaru公演の話になります。8月3、4日のオペラ「トゥーランドット」(プッチーニ作曲)。ついにマエストロ大野の登場です。自身が音楽監督を務めるバルセロナ交響楽団を引き連れてやってきます。
わたしの印象では、大野氏といえばドイツ・オペラですが、新国立劇場芸術監督としてはイタリア・オペラとロシア・オペラにも力を入れています。また、2015年にNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演したときは、ヴェルディの「椿姫」で、深い譜読みを披露していましたので、期待はとても大きなものがあります。
「トゥーランドット」は、テノールのアリア「誰も寝てはならぬ」が飛びぬけて有名ですが、それだけでなく、主役・トゥーランドット姫の超絶技巧的なアリアなど聴きどころは満載です。
残念ながらチケットはすでに完売していますので、買えなかった人にはこれ以上書くのは残酷かもしれません。
大野氏よりももっと有名な日本人指揮者はいますが、実力は彼がぴか一だとわたしは思っています。チケットを買えなかった人も、彼の名前は記憶しておいてほしい。
…とまた残酷な話をしてしまいました。ごめんなさい。この辺でやめておきます。
今回のプロダクションについては、「オペラ夏の祭典」のホームページをご覧ください。
日常生活で元号を使うことはまずありません。
ですから、「平成最後」などと浮かれる気持ちにはなれませんし、新しい元号をめぐってフィーバーのような状況になっていることには、違和感を覚えます。なにしろ、あまのじゃくですから。
わたしも一定の年齢になるまでは、基本的に元号を使っていました。日本中がそうでしたから。
しかし、新聞記者になって、初めて海外出張を経験し、取材相手に元号で年を伝えようとした自分に愕然としたことを鮮明に覚えています。いまにして思えば、実に愚かでした。
以来、西暦を基本にしています。
平成時代になり、元号の相対化は相当進んだ(存在感が薄れた)と思います。その平成もまもなく終わります。さらに相対化は進むでしょう。それは良いことではないか。
新しい元号は、おおむね歓迎されているようです。
でも、疑問はぬぐえません。
「令」の意味は本当に「よい」「めでたい」が代表なのか。漢和辞典を調べても、その意味が出てくるのはずっと後の方です。付け足しレベルといってもいい。
日常、良い意味で使われるのは「令息」「令嬢」「令夫人」が代表格でしょう。これは、単なる敬語であって、本当にその息子がイケメンで、そのお嬢さんや奥さんが美人で性格もいいことを知っていて使う人は少ないのでは。
考案したとされる万葉集研究者が、メディアに頻繁に登場して、新しい元号の「美しさ」を説明しています。その研究は尊いとわたしも思います。
でも、これは、オリンピック選手や元選手がオリンピックを礼賛するのと変わりはない。選手のみなさんの努力を讃えることは人後に落ちないつもりですが、オリンピックの負の側面を、こういう人たちが指摘することはまずありません。
学者の間にも異論はあるようです。
これは中国思想史の専門家ですが、東大の小島毅教授は「令」は「れい」ではなく「りょう」と読むべきではないか、と指摘したり、出典の「梅花の歌」は「咲き誇る花ではなく落ちゆく花。縁起がいいと思う人は少ないのでは」と言っているのが気になります(朝日新聞、日付は失念)。
元号は改元後にはその時代の天皇の「名前」になります。「明治天皇」「昭和天皇」というように。それだけに、時の政府が自分の思いを込めすぎず、中立的に選ばれてきたのですね。その点でも、今回の改元で時の首相がずいぶんはしゃいでいたように見えたのは、ちょっと恥ずかしいようでもある。間近な選挙や自分の支持率に有利に利用しようとしたと勘繰られても仕方がないでしょう。実際、勘繰りではないかもしれないし。
東大史料編纂所の本郷和人教授のインタビューも紹介しましょう。
<本郷さんは「令旨」という言葉を挙げて、令は皇太子につきものの漢字でもあると解説してくれた。「令旨とは、皇太子の命令を言います。学問的に見れば、令という字のついた天皇なんて、皇太子殿下に失礼ではないですか」(略)「家令という言葉がありますが、令は律令に規定のある役人であり、使用人です。それを元号に入れるとは」(略)「安倍首相に皇太子殿下を侮辱しようという意図があったとは思いませんが、周りの学者は何をしているのかと。気が付いていないなら学者として失格だし、気が付いていて言わないなら、それこそ最大のそんたくですよ」>(毎日新聞、4月16日付)。
天皇の在位と元号が結びついたのは一時の政治的判断で歴史が浅いこと、万葉集が戦争に利用された事実など、根本的な問題は言うにおよばず、これだけの疑問があるのであれば、使わなくても済む新しい元号はなるべく使わずにおこう、と思う人がいても不思議ではないように、わたしには思われます。
そんなことを思わせた今回の元号の選択、発表のあり方の是非は後世どう語られるのでしょうか。それこそ歴史が審判を下すのでしょう。