2017年02月
立花隆さんの大著「武満徹・音楽創造への旅」(文芸春秋)をきっかけに、もう少し書きます。ただし本質ではなく、とっても周辺的な話題を2つ。
世界を驚嘆させた琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」は、武満さんの出世作といっていい作品です。立花さんの本でも多くページが割かれています。
印象的なのは、同曲になくてはならない琵琶奏者の鶴田錦史さん(1911年滝川市生まれ。95年没)が女性だったという事実と、エピソードの数々です。カナダ・トロントの空港で女子トイレに入って行って大騒ぎになったとか、NHKの有名ディレクターも1年間気が付かなかったとか。
ぼくも、テレビ映像で拝見しただけではありますが、鶴田さんは男だとばかり思っており、告白しますが、この本で事実を初めて知りました。見事な男装ぶりだったとはいえ、気づくのがいかにも遅すぎ。「不明を恥じる」どころではありません。
考えてみれば、人は誰かと向き合ったとき性別は外見で判断し、それを疑うことはしないものです。でも、あえて確認することも必要なのかも。いやいや、それはセクハラに当たるのか、などと考えがめぐります。
話題をもうひとつ。武満さん死去を報じたNHK夜7時のニュースのお粗末さです。
アナウンサーはこう言ったというのです。
「NHKの連続ドラマ“夢千代日記”の作曲者であった武満徹さんがお亡くなりになりました。武満さんは昨年のNHK放送文化賞の受賞者でもあります」
これが世界中の音楽家の尊敬を集め、歴史に残る作品を多く遺した作曲家の死に捧げる言葉でしょうか。開いた口がふさがりません。
NHKには優れたドキュメンタリーも多いのですが、ニュースでは今でも類似の場面に遭遇します。自局の宣伝過剰を少しは恥じるべきだ、と訴えたい。
無意味な立腹は抑えましょう。こんなときは石川セリさんのCD「翼 武満徹ポップ・ソングス」が心を落ち着かせてくれます。
写真は筆者が愛聴している石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」
昨年は作曲家・武満徹さんの没後20年でした。日本の生んだ20世紀の大作曲家の一人です。各地で記念のコンサートが開かれました。
命日の2月20日を前に、あらためて武満さんをしのびたいと思います。きっかけは、やはり没後20年を記念して出版された立花隆さん著「武満徹・音楽創造への旅」(文芸春秋)に遅まきながら圧倒されたことです。
2段組み780ページの大部に、武満さん本人はもちろん、彼を取り巻く国内外の音楽事情がぎっしりと詰まっています。
クラシック音楽界は爛熟の後期ロマン派の後、とても難しい時代を迎えます。
いわるゆ「現代音楽」は、新しい表現手段を求めて聴衆に挑戦するかのような「楽しくない音響」に入り込んでいきます。
武満さんもそうした「実験」の影響を受けています。しかし、生み出された作品はそれらとはまったく違った印象を与えます。
その特徴を、知識も経験も足りないことを自覚した上でぼくなりに表現すれば、「漂うグラデュエーション」ではないか、と思うのです。
煙が大気中をたなびくような、あるいは水のなかの絵の具がゆらゆらと広がり混じり合い、どこまでも延びてゆくような…。
彼の音楽に東洋的自然観を見るのもそんな特徴ゆえでしょう。
立花さんの本から最後に印象的な言葉を引用します。
武満さんは「僕は小さい音が好き」と強調しているのです。「大きい音の大きさは有限だけど、小さい音の小ささは無限のグレードがある」「大きい音にはみんなあんまり注意を払わないけど、小さい音だと、みんな耳をそばだてて音を聴き出そうとする」と。
彼はギターを愛し、優れた作品を遺しました。ギターはまさに小さな音に耳を傾けてもらう楽器です。この楽器には実は、ぼくも思い入れがあるので気に入った一節なのです。
写真は立花隆「武満徹・音楽創造への旅」
ギターを抱える筆者。カバー写真は実はこうなっていました

地元・札幌市民として、これはちょっと寂しいんじゃないか。この時期が来るといつも思っていました。