終了御礼

札幌で初めての催し「さっぽろ落語まつり」が、2019年5月24日から26日まで、市内三つの会場(札幌文化芸術劇場hitaru、道新ホール、共済ホール)で開かれました。東西から、今をときめく売れっ子の噺家さん総勢28人が集まり、合わせて13公演。各公演に5~6人ずつ出演して来場者を大いに笑わせました。

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お越しいただいた皆様、ありがとうございました。目当ての公演が売り切れて希望がかなわなかったファンの皆様、申し訳ありませんでした。

hitaru会場内には、高座を再現した模型が組まれ、座布団にすわって記念撮影される来場客が列をなしました。記念グッズの販売コーナーも人気で、主催者が用意したオリジナルてぬぐいは1000本が売り切れ。お祭りムードを楽しんでいただけたようです。

落語まつり


強い暖気が入り込み、東京や大阪よりも暑くなった札幌の3日間。三会場同時進行のまつりですから、全公演を自分の目で確かめたわけではありませんが、どの公演も大好評だったようです。



噺家さんたちは全力投球で持てる芸を披露していただきました。「まくら」では、落語鑑賞にあまり慣れていないお客を想定したような、基本的な話題もちりばめてくださった師匠が多く、通(つう)のお客様を含めて、楽しめて今後の鑑賞の参考にもなったのではないでしょうか。



東京・大阪では、チケットの入手が難しいといわれる人気者が顔をそろえる豪華なまつりにできたのは、プロデュースを買って出てくださった六代目三遊亭円楽師匠のお陰です。
師匠は福岡で12回を数える「博多・天神落語まつり」もプロデュースされています。「福岡に続いて札幌でもまつりを定着させる。オセロゲームのように」。その熱意には執念を感じさせるほどのものでした。



まつりは、テレビ北海道の開局30周年記念事業にも位置付けられ、メーン会場となった札幌文化芸術劇場hitaruとともに共催させていただいたものです。
私どもは道新寄席、テレビ北海道さんはTvh落語で、落語会の経験を積んできたつもりではいますが、さすがにこれだけの規模となると、準備段階から緊張の連続でした。
この経験を糧に、来年の第2回も計画中です。ぜひ、ご期待ください。また、道新ホールなどでほぼ毎月開いている道新寄席もどうぞごひいきに。

写真はhitaruの会場の様子とにぎわうhitaruロビー

言論の自由

「言論の自由」。


たいそうなタイトルを掲げましたが、これはわたしたちにとって譲ることのできない権利です。

文化イベントの主催を仕事の柱とするわたくしどもの会社にとっても死活的に重要です。
「言論の自由」、それと分かちがたい「表現の自由」「出版の自由」は、闊達な文化活動に欠かせない条件です。これがなければ、市民に広く支持される文化イベントも生まれません。

その「言論の自由」が、都合のいいように使われている。

2019年5月の北方領土ビザなし交流に参加し、国後島での訪問団の懇親会で酔っぱらった末に、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」「戦争しないとどうしようもなくないですか」と、団長にからんだ国会議員のことです。

この発言自体とんでもないのですが、そのとんでもなさは、わたしが詳しく書くまでもありますまい。

注目しているのは、「次の段階」です。まあ、予想通りといえば予想通りなのですが、この人物が「言論の自由」をたてに、反論を企て、議員に居座ろうとしていることです。

ここで「言論の自由」を持ち出すのは筋違いであることは、しっかり指摘しておかなければならない。

いまさら偉そうに言うことではありませんが、「言論の自由」の本質は、「統治される側」にとっての「市民的自由」です。
「統治する側」が、その権力や権限を使って、「統治される側」の言論の自由を奪ったり抑圧したりしたら、「統治する側」には、やりたい放題になってしまう。それを抑止するために保証した「自由」なのです。

似たものに「国民の知る権利」があります。隠し事が漏れ出して犯人捜しをする「統治する側」がたまに「政府にも知る権利がある」などと口走ることがあります。これは違う。「知る権利」はあくまでも「国民の」権利です。政府にあるのは「知る権利」ではなく「知らせる義務」なのです。

これは付け足しですが、
「言論の自由」を横並びの市民に向けるときは、「自由」だけを主張することは許されず、「責任」も伴う。これもまた、当然のことです。

この議員に対して野党が5月17日、辞職勧告決議案を提出しましたが、与党側はもっとユルい譴責決議案を出し、ひょっとするといずれの決議案も廃案になるかもしれない状況です。
与党が辞職勧告に後ろ向きなのは、失言・暴言で辞職勧告の前例がない、こんな前例をつくったら後から色々出てきて際限がなくなりかねない(さすがに露骨にこうは言っていませんが)ということなのですね。


さらに―。
やはり出てきました。「国会議員の言論の自由は保障されるべきだ」(自民党幹部、北海道新聞5月17日朝刊)。


そういえば安倍晋三首相も言っていました。ことし、「悪夢のような民主党政権」と自民党大会で演説して批判されたとき。まだありました。2014年の衆院選の際に、民放テレビが放送した「まちの声」が偏っているとクレームをつけて批判されたとき。何と国会で(!)言論の自由と胸を張ったのです。
「自由」「民主」が聞いてあきれる。この総裁にしてこの幹部あり、ということでしょうか。

問題の議員は自民党ではありませんが、東京大学を出て国家公務員上級試験にも合格したエリートだそうです。しかし、民主主義や市民の自由については、何も学んでこなかったのですね。そんな人間を選挙で担いだ政党も政党だ。

国会議員は、「統治される者」の代表として統治機構をチェックするのが仕事です。そのために権限も立場も保証されている。他に権限のない市民の「宝物」である「言論の自由」を持ち出すのはまったくおかしいのです。
この人物が国会議員としてすべきことは、領土問題の歴史・現状を学び、国際条約を学び、政府の対応の是非を研究し、その成果を国会の場で開陳し、「統治する者」である政府を動かしたり、国民の共感を得たりすることです。

立場をわきまえず、自分勝手な思い込みを、しかも酔っぱらってわめきたてるのは「言論の自由」で保護されるべきことではない。

領土問題に戦争を持ち出すことがあまりに愚かなので陰に隠れてしまいそうですが、大切な「言論の自由」を拡大利用させないことにも、しっかりと目を光らせたい。
こういう人に限って、自分の気に入らない表現活動を抑え込もうとする危険が大きいものです。

ナカミとイレモノ

雑誌ニューズウィークに面白い記事が載っていました(日本版5月14日号)。


「ストリーミング配信は環境に優しくない?」


音楽をCDなどのパッケージ・ソフト(ナカミとイレモノ)で聴くのと、ストリーミングなどのネット配信(ナカミだけ)で聴くのと、どちらが環境に優しいのか―を、論じたものです。

筆者はグラスゴー大学のマット・ブレナン准教授と、オスロ大学のカイル・デバイン准教授。二人も二つの大学のこともよく知りませんが、スコットランドとノルウェーが並べば、環境問題には深い関心があるのだろうなぁ、と思わされます。


たかが趣味の音楽鑑賞を、環境と結びつけて考えるとは、なかなかユニークではありませんか。



ケースに入れ包装して店に並べるのと、データだけ通信で送るのと―。勝負ははじめからついているようにも見えます。
ところがどっこい。記事のサブ見出しには
「(ストリーミングでは)レコードやCDの時代より格安に楽しめるが目に見えない環境コストは増加する一方だ」
とあります。



どういうことか、興味がわきます。



生産にかかわる環境負荷を考えれば、事態の推移は劇的です。

<77年にアメリカの音楽業界で製造されたプラスチック製品は5800万キロ。CD全盛期の2000年には6100万キロに増加したが、ダウンロード版とストリーミング配信の普及に伴い、16年には800万キロにまで減少している>

一方、ネットでの音楽視聴には巨大なデータセンターが必要で、膨大な電力が消費されることを忘れてはいけません。

筆者らは、音楽データの保存・配信に使われる電力を温室効果ガスの排出量に換算する、というちょっと想像がつかない計算をやってのけています。



それによると―。

<77年に1億4000万キロだった温室効果ガスは、2000年には1億5700万キロに増加。さらに16年には、推定2億~3億5000万キロにまで増えていた。しかも、これらはアメリカ国内だけの数字だ>




環境への「優しさ」を比べるのは容易ではないのですね。パッケージ・ソフトの生産にも電力は使わるでしょうし、それを店頭に並べるまでに必要とされるエネルギー、それを購入するために愛好者が移動するのにかかるエネルギー。また、再生装置を生産するための環境負荷はどちらが重いのか。希少金属などの資源消費は―。

そのもろもろが、消費者が負担する価格で測れるのであれば、優劣ははっきりしています。

<1週間の給与に占める音楽媒体の小売価格の割合を見れば(略)、1977年にはLPレコード1枚の価格はアメリカの平均的な週給の4.83%を占めていたが、2013年のダウンロード版は週給のわずか1.22%だ>


当然のことですが、筆者らもこの数字だけをもってなにがしかの結論を出そうとはしていません。


<簡単な解決策はない。それでも音楽をめぐるコストと、それが時代とともに、どう変化してきたかに思いをはせることは、わたしたちが正しい方向に一歩を踏み出す1つのきっかけになるはずだ>
と記事を結んでいるのです。


わたしはというと、古い人間ですから、ナカミだけあればイレモノはいらない、と割り切ることはなかなかできずにいます。
好みのクラシック音楽でも、歌劇場やコンサートホールからのネット中継もあったりしますが、それにアクセスした経験は数えるほど。「いずれパッケージで発売されるだろうから、それを待とう」などと思ってしまいます。
ホームサーバーに音楽ファイルをため込んで聴くなんてことに手を出しているくせに、データ元のCDはなかなか処分できないというのも、われながら笑っちゃう行動パターンではあります。



月並みな結論で恐縮。結局、趣味は所有や利用にかかるカネでは測りきれないのですね。ちょっと前までは、電気ストーブのように発熱する効率の悪いオーディオ・アンプをありがたがって使っていたわたしです。ハイエンド・ユーザーの間で見直しが進むLPレコードまでさかのぼるつもりは、いまのところありませんが、圧縮された音楽ファイルをイヤホンで聴くことがどれだけ環境に優しくても、それで満足できるとは思えません。

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