『にこり』と笑える幸せ

小さいころから地図を見るのが好きでした。日本地図を眺めては、未知の世界に対するあこがれを膨らませていた少年時代を懐かしく思い出します。




では皆さん、全国の都道府県の中で、最も地形が複雑なところはどこでしょう?




わたしは迷わず答えられます。それは「長崎県」です。ぜひ長崎の地図をご覧になってください。北東部が佐賀県に接している以外はすべて海に面し、海岸線の複雑さは一目瞭然。島の数は全国最多の971! 朝鮮半島に最も近い対馬(島の北端から韓国の釜山まで約50㌔です)は福岡県よりはるか北に位置しています。さらに壱岐、平戸、五島列島、九十九島…。統計では、海岸の総延長は4203㌔に及びます。県を一つに統合する苦労を思わずにいられません。



そんな長崎県が年4回、発行している広報誌があります。タイトルは「ながさき にこり」。「にこり」とは長崎の方言なのかと思い、県の総務部広報課に尋ねたことがあります。答えは「いやいや、方言ではありません。にっこり笑う。そこから『にこり』と名付けました」。なるほど。誌面を手にした人が「にっこり笑う」。島の人びとの心をひとつに繋ぐ。深い「郷土愛」のような、ぬくもりのある温かさを、この「にこり」の響きに感じ取りました。



長崎にこり
写真1(長崎県の広報誌「ながさき にこり」。世界遺産登録を記念した特集号です)



こう思うのは、おそらく長崎が背負ってきた歴史と関係があるのでしょう。江戸時代、日本で唯一、海外に開かれた港町として発展していきますが、一方で、みなさんご承知の通り、キリシタン弾圧の悲しい歴史、命懸けで守り抜いてきた精神文化、島々に伝わる隠れ切支丹の秘話など、異教の歴史が脈々と息づいているのです。


原爆投下を含め、残虐な死の光景が刷り込まれてきた長崎の歴史の中で、人々が守ってきた「にこりと笑う文化」にわたしは救いを見いだす思いがします。


前回まで4回にわたり九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した天正遣欧少年使節の物語を紹介しました。日本人として欧州を訪れたのはこの4人の少年たちが初めてです。輝かしい栄光を背負いながら、帰国後は徳川幕府が推進する禁教政策の中で、それぞれに過酷な人生を生きることになります。


栄光の船出をしたのも、盛大に帰国の歓迎を受けたのも長崎です。中浦ジュリアンが穴吊りの拷問で死んだ場所も、原マルチノがマカオへ海外追放された地も。伊東マンショが病死し、千石和ミゲルが棄教後、改宗して隠れるように日々を送った場所も。すべてはここ、長崎だったのです。


遠藤周作はカトリック教徒として、信仰をテーマにした数々の名作を残しました。仙台藩主伊達政宗がローマ教皇に派遣した支倉常長を主人公とする「侍」については以前、紹介しました。もうひとつの代表作「沈黙」の舞台として知られるのが外海(そとめ)町(現在は合併して長崎市)で、ここに遠藤の足跡を紹介する文学館が2000年に開設されました。



遠藤周作文学館
写真2(遠藤周作文学館のエントランス。遺稿を含め約3万点が展示されています)



遠藤はこの地を訪れるたびに、海と島が織りなす光景に感極まったといいます。新潮社から出版されている「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」から一節を引用します。



「陽光にまばゆく光る海と島とをみる時、私の胸はあたらしい感動と憩いとに充たされる。これと同じ風景を見た南蛮の宣教師たち、教えを信じた百姓や漁師のことを考える。切支丹の時代、この長崎とその周辺は、ヨーロッパ文化の中で最も源流をなすもの、あの基督教とまともにぶつからねばならなかった。それゆえ多くの迫害と殉教があり、多くの血が流れた」



長崎は比類なき価値を有する地です。2018年6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。江戸時代のキリスト教弾圧の中で信仰を続けた希少な宗教文化が世界から高く評価されたのです。




天草崎津
写真3(隠れ切支丹の里として知られる天草の崎津集落)



遺産は12の資産で構成され、長崎市のほか佐世保市、平戸市、南島原市、小値賀(おぢか)町、新上五島(しんかみごとう)町、五島市、熊本県天草市に点在します。1637年の島原の乱で武装したキリシタンが立てこもった「原城跡」(南島原市)や漁村特有の信仰形態を残す「天草の崎津集落」(天草市)、幕末に潜伏キリシタンが神父に信仰を告白したことで知られる国宝「大浦天主堂」(長崎市)が主な遺産です。



大浦天主堂外観
写真4(長崎の大浦天主堂は日本最古の教会。正式には日本26聖殉教者聖堂と言います)



大浦天主堂2
写真5(大浦天主堂の内部。ステンドグラスの光の中で信者の祈りが絶えません)



長崎の世界遺産をゆっくり巡るのがわたしの退職後の大きな夢のひとつです。12の資産を1カ月かけて巡る…。だれか長崎に詳しい方がいましたら、ぜひ教えてください。

少年が問う『信仰』とは

新聞は日々、さまざまな「気付き」をもたらしてくれます。



前回、ローマ教皇庁から発信された小さなニュースを端緒に、キリシタンの弾圧で殉教し、「福者」の称号を与えられた中浦ジュリアンの話を説き起こしました。400年前、日本人として初めてローマの地を踏み、教皇に謁見した天正遣欧少年使節。派遣された4人の少年の一人だったジュリアンの「最期」は極めて残酷でした。

残る3人の運命は……。そんなことを考えていたわたしは、再び、ローマから発信された共同電の記事にくぎ付けとなりました。いまからちょうど6年前。北海道新聞に掲載された記事をそのまま紹介します(2014年3月22日の夕刊第2社会面)。


伊東マンショ
写真1(少年使節の一人である伊東マンショの肖像画。関係者に驚きが広がりました)


【ローマ共同】九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画がイタリアで見つかった。調査に当たった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。
論文をまとめた文書保存・管理担当者のパオラ・ディリコさんによると、肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏には「Mansio」などと記されている。

ディリコさんは遣欧少年使節の史料の調査や専門家による鑑定などの結果、1585年にマンショらが北部ヴェネツィアを訪問した際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。

肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用。制作を受注したのは父と伝えられるが、衣装の特徴や画風などからドメニコが仕上げたと論文は結論づけている。
 
発見されたマンショの肖像画は2年後の2016年に東京・上野の国立博物館で初公開されました。当時16歳だったマンショの表情が生き生きと描かれた油絵は、歴史愛好家の話題を集めました。キリスト教伝来以来の日本の歴史にも新たな光が当てられたのです。

前々回、リスボンからスペインを経てローマに赴いた少年たちの旅程を紹介しましたが、あらためてその地図を見てみましょう。4人がローマにとどまらず、イタリア国内を巡った足跡が分かります。聖フランチェスコの生誕地アッシジにも立ち寄っていたとは!


少年ルート
写真2(少年たちが辿った旅程。イタリア国内を巡った軌跡が分かります)

伊東マンショの肖像画が描かれたのは、ローマから帰途に就く1585年、ヴェネツィア共和国滞在中でした。この時、4人全員の肖像画が描かれたとされますが、残念ながらこの作品以外、所在は分かりません。イタリア国内のどこかに眠っているのでしょうか?

マンショは帰国後、豊臣秀吉に謁見し、さらに長崎のコレジオで勉学を続け、イエズス会に入会。神学の道を究めるために、ポルトガルの居留地だったマカオに留学して司祭に叙階されます。その後、再び日本に戻って布教に専念する中、病に冒され、1612年に43歳で病没しました。病床では原マルチノが看取ったとの記録が残ります。


原マルチノ
写真3(原マルチノの生涯は4人の中で最もベールに包まれています)

そのマルチノはキリシタンの弾圧が強まる中、1614年にマカオへ永久追放されます。29年に60歳で死去。遺体は当時アジア最大のカトリック教会だった聖パウロ天主堂の地下に埋葬されました。信仰に全身全霊を捧げ、異国マカオで波乱の人生を閉じたのです。


マカオ大聖堂
写真4(マカオの聖パウロ天主堂跡。聖堂は火事で焼失し、正面外壁だけが残っています)

もう一人のメンバーだった千々石ミゲルは、4人の中で唯一、キリスト教を捨て、日本名(清左衛門)に改名しました。教皇に謁見し、新教皇の戴冠式にまで列席したミゲルの棄教は、キリシタン大名や宣教師たちに動揺を広げ、キリシタンの威信失墜につながります。


ミゲル
写真5(ミゲルは棄教後、命の危機にさらされながらも生を全うしました)

ミゲルの心境にどんな変化があったのでしょう。キリシタンからは「裏切り者」の汚名を着せられ、命を狙われながらも64歳の生涯を全うします。こんなミゲルに関し、3年ほど前、「ミゲルは信仰を捨てていなかった?」との見出しで、これまでの定説を覆す驚くべき記事が報道されたのです。報じた朝日新聞の記事を引用します。

「16世紀にキリシタン大名の名代として欧州へ派遣された天正遣欧使節4人の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる石碑(長崎県諫早市)の地下から、キリスト教で祈祷の時に使う聖具『「ロザリオ』」とみられるガラス玉などが見つかった。ミゲルは帰国後、キリスト教を捨てたとされてきたが、覆る可能性があるという」

4人の人生はなお多くの謎に包まれており、そのベールの向こう側から現在のわたしたちに「信仰とは何か」を問い掛け続けているように思います。

『福者』になった少年

ローマ法王庁から発信された小さなニュースに目が留まったのは、2007年のことでした。記事はローマ発の共同電。内容はおおむね次の通りでした。



「江戸時代初期に日本各地で殉教した188人のカトリック信者に対し、ローマ法王庁が『聖人』に準ずる『福者(ふくしゃ)』の称号を授けることを決定した」



世界に門戸を閉ざし、伝来したばかりのキリスト教の信者を根絶した400年前の日本。188人はその過酷な時代に遭遇し、信仰に命を捧げた人たちでした。では、なぜこんな措置が取られたのでしょうか。


福者
写真1(福者を祝う式典=列福式=に向けて描かれたポスターです)

昨年11月下旬、ローマ教皇フランシスコが訪日しました。教皇の日本訪問は1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目のことでした。実は、ヨハネ・パウロ2世が訪日した際、日本カトリック司教協議会が、1603年~39年にかけて、江戸幕府の禁教政策によって殉教した188人を「福者」に認定するよう、教皇に「直訴」したことが発端となったのです。認定に至るまで、30年もの歳月がかかりましたが、慎重かつ膨大な審査を経て、教皇の約束は果たされたのです。


ヨハネパウロ2世
写真2(教皇ヨハネ・パウロ2世は長崎を訪れた際、信者から絶大な歓迎を受けました)


福者の名簿を追っていたわたしは、一人の名前に目が留まりました。



「中浦ジュリアン」



ジュリアンは九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した天正遣欧少年使節のメンバーの一人です。4人で構成された少年使節については前回、8年間に及ぶ長い旅路を時代背景とともに振り返りました。

少年たちはルネサンス文化全盛の欧州・イタリアを隈なく巡り、長崎出発から8年後の1590年に帰国します。日本は戦国時代からやがて江戸時代を迎え、キリスト教徒の迫害は激しさを増していきます。メンバーの一人だった中浦ジュリアンは帰国後、どんな人生を送り、殉教者としての道を歩んだのでしょうか。


中浦ジュリアン
写真3(ジュリアンは長崎・大村藩主大村純忠の家臣の子で、頭脳明晰な少年でした)

ジュリアンは帰国後、「司祭」に叙階され、九州各地で布教を続けます。江戸幕府によるキリシタン弾圧が激化する中、キリシタン追放令が発令されても、布教を諦めることはありませんでした。殉教覚悟で地下に潜伏し、九州各地を回って迫害に苦しむキリシタンを訪ね歩いて祈り続けたのです。

地下活動は20年に及びますが、1632年、遂に捕縛されて長崎に連行され、最も残虐な「穴吊るし」の刑に処せられました。だれがこんな拷問を考案したのでしょう。頭を下にして穴に吊るすと、全身の血が頭にたまります。こめかみに小さな穴を開け、そこから数滴ずつ血液を穴に垂らすことで、ゆっくりと死に導いていく恐ろしい刑です。ジュリアンが絶命したのは穴吊るしから4日目。齢65歳。苦難と栄光に満ちた人生をこんな形で閉じるとは。



「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアンです」。


かすかな声で発したとされる最期の言葉には、日本人として初めてローマ教皇に謁見したプライドが込められていたのでしょう。

禁教を完成させたのは、徳川3代将軍家光でした。男色家として知られる家光は、国内の信者と宣教師を完膚なきまで抹殺へと導いた人物でもあります。キリシタンを次々と殺害していく光景をみると「人間はそこまで残酷になれるのか」と思わざるを得ません。


家光
写真4(3代将軍徳川家光。男色家として知られ、女性には全く興味を示しませんでした)

少年使節のすべてを書き切った若桑みどりさんの大著「クアトロ・ラガッツィ」は最終章に「ジュリアンの殉教」と題した一項を立て、残虐な結末を詳述しています。若桑さんは、徳川政権が旧態依然たる封建的体制を固守する道を選んだ17世紀初頭のわが国を冷徹に見詰めます。次の一文を読んで、皆さんもお考えください。

「スペイン・ポルトガルには日本を征服する意志がなかったにもかかわらず、国民の愛国心に訴えて仮想の外敵を作り上げ、国民の心をひとつに絞った。そのとき、キリシタンは二重の意味で血の制裁を受けなければならなかった。ひとつにはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由によって、もうひとつは神道の敵、すなわち国体の敵であるという理由によってである。17世紀の日本におけるキリシタンの大量虐殺はこうした世界の情勢が日本の国策とからみあって起こったのである」



クアトロ・ラガッツィのうち、ジュリアン以外の残る3人の運命も苛烈なものでした。

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