苦難に満ちた大海原へ

東日本大震災の被災地から届いた小さな記事に目が留まったのは、発生から2年以上が経過した2013年4月のことだったと記憶しています。



その記事にはこう書かれていました。

「東日本大震災の津波で壊滅した宮城県石巻市の慶長使節船ミュージアムが2年の歳月を経て、修復工事が進み、ようやくその一部が5月の大型連休に向けて一般公開される」

記事を頼りに、その年の夏休みに現地を訪れました。なお復興半ば。震災被害の甚大さに言葉を失う一方で、被災した人々のたゆみない努力と再興への営みに、生きる勇気と希望を与えてもらった感慨深い旅でした。




サンファン号

写真1(東日本大震災で壊滅し復元されたミュージアム。使節船であるサン・ファン・バプティスタ号は江戸の船大工が建造しました)




話は仙台へと舞台を移しました。江戸時代初期の1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗はスペイン人宣教師ルイス・ソテロを正使に、政宗の家臣支倉常長を副使とし、スペイン国王、ローマ法王のもとに宗教・通商ミッションを派遣。この使節は「慶長遣欧使節」として歴史に刻まれている。前回、こう紹介しました。



ここに話が飛んだのは…。現在のローマ教皇と同様、支倉常長がイタリア中部アッシジの聖人フランチェスコに名を求め、「フランシスコ」の名で洗礼を受け、教皇に謁見した史実に触発されたからにほかなりません。




支倉常長1

写真2(支倉常長のこの肖像画はローマのポルゲーゼ宮に保管されています。縦2㍍、横15㍍。仙台市博物館の肖像画とは表情が異なります。右中央部にはサン・ファン・バプティスタ号が描かれています)



407年前、常長が太平洋の大海原を越え、欧州へと旅立った地点こそが、記事で紹介されていた慶長使節船ミュージアムのあるこの場所。「月の浦」と呼ばれる歴史地区なのです。



石巻市街から、車で牡鹿半島を海岸沿いに進みます。ミュージアムは、女川(おながわ)町に向かうほぼ中間地点の渡波(わたのは)地区にありました。


常長ら仙台藩士のほかスペイン人宣教師、江戸や堺の有力商人ら総勢180人を乗せて出航した帆船は「サン・ファン・バプティスタ号」と呼ばれます。スペインの海洋技術の粋を集め、江戸の船大工が造り上げました。現在、当時の姿を忠実に復元し、その船上と船内を使って歴史をたどることができます。「心躍らされる素晴らしいミュージアム」です。


これから、月の浦を出発した一行の旅路をたどってみようと思いますが、その前に、なぜ伊達政宗がこのミッションを派遣したのか。その原点を抑えておく必要がありますね。




サンファン広場

写真3(帆船の外には太平洋を見晴らす広場が広がります。常長ら一行が見たローマのイメージを再現したと説明されていました)


1613年とはどんな時代だったのでしょう。みなさんご承知の通り、日本はすでに江戸時代に入っています。徳川家康が天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いに勝利して戦国の世を統一し、江戸幕府を開いたのが1603年です。


ただ、幕府の体制はまだ万全ではありませんでした。家康にとって、とりわけ大坂城(大阪城)を拠点とする豊臣氏は大きな脅威となっており、いつ寝返りを打たれるかわからない不安に日々、苛まれていました。


猜疑心に満ちた“狸おやじ”家康は、豊臣氏を根絶やしにします。それが、1614年の大坂夏の陣と翌15年の冬の陣だったことは、歴史好きの方はご存知ですね。


支倉常長が欧州へと出航したのは、まさに大坂の陣の直前のことだったのです。


みなさんは、江戸幕府がキリスト教の布教を禁止する「禁教令」を出し、海外との交流を禁止する「鎖国令」を発したことを学んだはずです。それぞれ1612年と1616年に発令されたことを考えますと、世は挙げてキリスト教を徹底排除する体制へと移行する時期だったと言えます。


遣欧使節は徳川の承諾を得ていたとされますが、幕府の禁教方針には明らかに逆行します。欧州への宗教・通商ミッションというのは表向きの理由で、むしろ大航海時代を制したスペインの経済力、さらにはカトリックの絶大な権力を後ろ盾に、家康の亡き後、徳川に代わって天下を取る。政宗がこんな外交戦略と野望を抱いたとしても不思議ではないでしょう。


こうした時代背景のもと、荒海に船出した支倉常長を待ち受けていたものは…。7年に及ぶ壮大な旅から、いまのわたしたちは何を学ぶことができるのか。一緒に考えてみましょう。

フランシスコに名を求めた侍

この写真を見て、みなさんはどこのまちか分かりますか。日本の都市です。


青葉通り

写真1(ケヤキ並木がまちを彩り、別名「杜の都」といわれます)



豊かな街路樹が、大きな通りに緑陰をつくっています。まるでうっそうとした森の中にいるような、不思議な気分になります。まちは、別名「杜の都」と言われています。どうでしょうか。そう、仙台です。



訪れたことがある人なら、この通りが「青葉通り」と呼ばれていることを知っているでしょう。JR仙台駅を背に、真っすぐ延びる大通りです。地下鉄を使わず、この通りを歩いてみましょう。

ケヤキ並木が続くこの大通りを行くと、まち屈指の繁華街である一番町のアーケード街と交差します。目印は、札幌の丸井今井のような、地元の老舗デパート藤崎です。



さらに歩きましょう。松尾芭蕉の旅の拠点となった「芭蕉の辻」があり、「荒城の月」を作詞した土井晩翠の居所「晩翠草堂」を過ぎ、さらにまっすぐ進むと、やがて広瀬川に架かる石造りの「大橋」を跨ぎます。目の前に青葉山。突き当りは東北大学のキャンパスが広がり、右手には国際会議場があります。





わたしたちが目指す目的地。それは、国際会議場の向かい側にある施設。仙台市博物館です。



仙台市博物館

写真2(仙台市博物館にはキリスト教に関連する貴重な国宝が数多く展示されています)




なぜ仙台の、この博物館を訪れたのでしょうか。

話が急に飛躍したので、驚いた方も多いでしょう。話を少しさかのぼってみましょう。


前回まで、わたしたちはイタリア中部の聖地アッシジを訪ねていました。2011年にローマ教皇に就任したフランシスコが、教皇としての名を求めた聖人フランチェスコの生誕地、それがアッシジでした。ウンブリア平野を望むフランチェスコ大聖堂で聖人の墓所とジョットが描いたフレスコ画を鑑賞し、貧しき者の中に常に身を置いたフランチェスコの短い人生に思いを馳せましたね。


現在の教皇がアッシジの聖人フラチェスコに名前を求めたと聞いた時、私の脳裏には同時に「ある人物」の名前が思い浮かびました。江戸時代の初期。現教皇と同様、「フランシスコ」という洗礼名を授かって、当時のローマ教皇に面会した日本人のことを…!


支倉常長。この人名をみなさんは聞いたことがありますか。「はせくら・つねなが」と読みます。では、「慶長遣欧使節(けいちょう・いおう・しせつ)」という言葉を知っていますか。いずれも高校の日本史の授業で習ったことがあると思います。



支倉常長2

写真3(仙台市博物館に展示されている支倉常長の肖像画。国宝であり、ユネスコの世界記憶遺産にも指定されています)


まず、慶長遣欧使節について。日本史の歴史事典を引いてみました。

江戸時代初期の1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗がスペイン人宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とし、スペイン国のフェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した宗教・通商ミッション。

こう書かれています。みなさん、覚えていますか。



では、支倉常長はどうでしょうか。同じ辞典を引いてみましょう。



伊達家の家臣として1571年、現在の山形県米沢市で出生。政宗が派遣した使節を率いて太平洋を横断、現在のメキシコを経て渡欧し、日本人としてローマ貴族の称号を受けた唯一無二の人物。スペイン・マドリッドで洗礼を受けカトリック教徒となる。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。帰国直後の1622年、51歳で死去。死没地など詳細は不明。



洗礼名はフランシスコ、しかもフランシスコ会のカトリック教徒とは! 



これは偶然でしょうか。現在のローマ教皇と同様、常長もアッシジの聖人に名を求めたことになるのです。フランチェスコはカトリック教徒にとって、当時から理想の体現であったことを証明しているといってもいいでしょう。


仙台市博物館には、支倉常長がローマから持ち帰った貴重なキリスト教関連資料が多数、保管されています。展示されている47点はすべて国宝です。さらに、これらは2013年、ユネスコの世界記憶遺産にも指定されました。

これから、支倉常長の壮大な船旅を辿りながら、このミッションがいまのわたしたちに何を問いかけているのか、思索を巡らせるもうひとつの旅に出ましょう。

改革への小さな灯りともす

わたしたちはなぜ、イタリア中部の聖地アッシジにあるフランチェスコ大聖堂を目指したのでしょうか。




昨年11月、ローマ教皇が日本を38年ぶりに訪問しました。教皇フランシスコは南米アルゼンチンの出身で、2011年に就任しました。その際、教皇として自らの名前を求めたのがアッシジに生まれた清貧の聖人フランチェスコでした。いまから800年近く前の12世紀末から13世紀初頭にかけて、わずか44年の短い人生を生きたのがフランチェスコです。アメリカ西海岸の都市サンフランシスコの名前の由来にもなったと書きました。

その聖人の足跡を辿るのが今回の旅の目的でしたね。


フランチェスコ
写真1(アッシジのまちのあちこちにフランチェスコの像があふれています)



セレブの家に生まれ、何ひとつ不自由のない生活を送っていたフランチェスコが、神の啓示を聞き、聖言に従って生きる道を選んだのは20歳のころでした。清貧で無垢、貧しい民衆の中に常に身を置き、生涯を神に捧げる。その姿は後世、「キリストに最も近い聖人」として称えられてきました。





禁欲的な宗派として知られるフランシスコ会はなぜ、この時代に誕生したのでしょう。フランチェスコが登場したのは偶然ではない。きょうはこんなお話をしておきたいのです。

瞑想のサンフランチェスコ
写真2(カラバッジョ作とされる「瞑想のサンフランチェスコ」)



中世盛期と位置付けられる11世紀以降、欧州ではキリスト教が庶民に浸透し、信者を拡大していきます。そんな中で、司祭たちは人々と教会の結びつきをより強固にするため、キリスト教に基づく倫理観を徹底的に教え込むようになったのです。


その倫理に反するような行為をすれば、教会に呼びつけて告白・懺悔をさせ、神の許しを請うよう厳しく諭します。これは一見、人心をつかむ手段ではありますが、次第にその倫理感から離れ、告白・懺悔を金で帳消しにする「免罪」というシステムが導入されていきます。有力者からの寄進や自らの商行為によっても教会はより豊かに、肥大化していくのです。その果てにやってくるものはー。


そう。腐敗、そして堕落です。




多くの会社や組織でこうした現場を目撃してきた現代のわたしたちにとって、その状況は容易に想像できるかもしれません。

たとえば修道士を例にとりましょう。神に仕える修道士は独身を貫かなければなりません。女性と交わることなく、一生童貞を通す。世俗の快楽から超越した世界を生きるのが修道士なのです。



ところがどうでしょう。10世紀にはその大半が妻帯し、子供を設け、地元の権力者と結びつき、強奪にも手を染める。宗教者にはあるまじき行為が公然と行われるようになります。女性関係は乱れ、少年や少女を恋愛対象とする小児愛や修道士同士の同性愛も日常化していくのです。



こうした腐敗をただす内部改革の動きが欧州に生まれたのが11世紀でした。ひとつはフランス南西部で発祥したドミニコ会、そしてもうひとつがここ、アッシジに誕生したフランシスコ会です。のちにパリで結成されたイエズス会と並び、世界各国への布教活動を担う組織として発展していきます。


サンタキアラ修道院
写真3(フランチェスコに帰依した女性聖人キアラを祀るアッシジのサンタ・キアラ聖堂)

 

ふたつの修道会はどちらも清貧と労働、托鉢を重んじ、「托鉢修道会」と総称されます。とりわけ、一切の財産の取得と所有を禁じ、「無所有」を実践したフランシスコ会はひたすら、布教活動に力を注いでいきました。



前回、フランチェスコの半生を描いた巨匠ロッセリーニ監督の「神の道化師、フランチェスコ」のラストシーンに触れました。サンフランチェスコが11人の修道士に対し「ぐるぐるまわれ」と声を掛け、目が回って倒れた方角を行き先と定めて、それぞれが布教の旅に出ていく。フランシスコ会の布教活動の原点とも言える光景がここに描かれています。



キリスト教の腐敗と堕落はみなさんご承知のように、やがてウィクリフ(英国)や火あぶりの刑に処せられたフス(チェコ)をはじめ、ツウィングリ(スイス)、ルター(ドイツ)、カルヴァン(スイス)による宗教改革へとつながります。カトリックに対しプロテスタントという巨大な対抗軸を生み出していくのは、ご承知の通りです。




その意味で、サンフランチェスコこそが、宗教改革の前兆となる小さな灯りをともした。こういっても過言ではないと私は考えます。ですから、みなさんにはぜひ、その原点となったアッシジに足を向け、ローマ教皇の名前の源泉であるフランチェスコと対峙してもらいたいと思うのです。

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